序章[消えた街道]


 

それはとある地図から始まった

「歴史的農業環境閲覧システム」という所で
明治初期の地図を見る事ができる
地図は「明治前期測量 2万分1フランス式彩色地図」を
使っていると思われる

その地図を見ていた私はある事に気づいた
松田−渋沢間は矢倉沢往還だよな
246ルートに道は・・・あ、あるんだ。んんんん?

あんだ、この道は!!!
 


古地図だと判り辛いから、現代地図にルートを持ってきた。(正確では無い)

Google マップ /青線−平安・鎌倉時代の矢倉沢往還(たぶん)/赤線−江戸・明治時代の矢倉沢往還

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青いルートは、明治時代の地図に載ってた「松田〜篠窪経由〜渋沢」の街道。古矢倉沢往還と言うべきか
赤いルートが、同地図に載ってる「松田〜寄入り口経由〜渋沢」の街道。新矢倉沢街道?

古(青)が標高300m近くまで上がり、アップダウンがあるのに対して、新(赤)は標高230m程で割と緩やか
人馬交通が主だった時代は良かったが、駕籠や荷車が通るのには向かなかったのだろう
バイパス化されてしまったらしい

図書館で地元史を探ると、江戸時代には人馬継立や街道普請で、松田神山−川音川沿い−千村−渋沢
ルートがメインだったのを確認。古ルートは脇街道として残ったのだろう

さて、新矢倉沢街道というものが判ったところで、本題です
川音川沿いから、いきなり千村に登る道。織戸組では判らんだろうから、
「たていし」のバス停。ラブホのある・・・ あんなトコから上に登る道はありません!!残ってない!!

該当部分の地図。地図上、紫は道が記載されている。赤は跡形も無い


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道路整備が進み、川音川をもっと上流まで登れる道ができるまで
そこには江戸時代の街道があったのです(いつまであったのかは不明だが、トドメは判っている)

江戸時代は、矢倉沢往還というより、大山道、ふじ道と呼ばれる事が多かったそうな
この部分は「ふじ道」と呼ばれてた(使われ方も曖昧なのだが)
資料を調べると、町中で2間(3.6m)、郊外山中では1間(1.8m)の幅があったそうだから、
該当する部分では1.8mの道があった筈

昭和の始めに通行できなくなった廃道。80年前の道を探しに行くぞ!!

古矢倉沢街道を行く
新矢倉沢街道を逝く

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